史上初。直木賞&本屋大賞のW受賞を果たした恩田陸の「蜜蜂と遠雷」。2017年のベストセラー第1位にも輝いたこの小説の映画化プロジェクトが始動したのは、言わば必然であった。だが、石黒裕亮プロデューサーは次のように振り返る。
    「互いを高め合っていく若者たちの、非常に真っ直ぐな物語。ある意味、アンリアルでさえある世界観が成立しているのは、青春を輝かせる若さと才能がそこにあるからだと思います。ただ冷静に考えると、ものすごく実写化しにくい作品。でもそのことを忘れてしまうくらい、私たちもここに描かれているキャラクターたちの魅力に取り憑かれていた」
    ストーリーの主要舞台は、ピアノコンクールの現場。コンクールを目指して奮闘する群像劇ではなく、コンクールの真っ只中で始まる。しかもメインとなる4人のピアニストたちは、互いにぶつかり合うこともなく、むしろそれぞれの心理が描写の「主菜」となる。言ってみれば全編クライマックスでありながら、通常の物語に当てはまらない話法の作品なのだ。
    「天才たちを描いていることもありますが、クラシックピアノはやはり常人とは違う世界。実際に取材してわかったのですが、ピアニストたちは自身の演奏の中では闘っているわけですが、普段は情報交換したりして、音楽を愛する者同士の一体感がある。他人が登り詰めていくことに対する苛立ちではなく、そこに追いつけていない自分と向き合っている。最後はひとりの闘いなんです」
    わかりやすい切磋琢磨ではなく、独特のストイシズムの中で奏でられる小説を前に、石黒プロデューサーは逆に発奮したと語る。
    「これだけ上手く描かれた音楽表現、キャラクター表現を、2時間の実写で、ほんとうに音が出るかたちにしたら、どうなるんだろう? ものすごく難しい壁だと思いながらも、この壁を登りきったら、気持ちのいい新しい映画になるんじゃないかと思いました。挑戦状を叩きつけられているような気がしたんです。映画は総合芸術。小説にも負けないものを示したいと思いました」
    乗り越えられない壁を乗り越えるためのキーワードは「生々しさ」だった。
    「ある意味、ドキュメンタリーを観るような、生のコンサートを聴くような、そんな映画にしたかった。石川慶監督の起用も、『愚行録』で見せてくれた力量もさることながら、彼にドキュメンタリー経験があったことが大きい。作られた世界観ではなく、ある世界を切り取ることで生まれる荒々しい生々しさ。最終的には『体験型』の映画にしようと思ったのです」
    では、「生々しさ」に必要なのものは具体的になんだったのか。
    生々しさ。それを際立たせるために必要な要素は、まず第一に、小説の中の魅力的な登場人物たちを、誰が演じるかだった。かつて天才少女として一世を風靡しながらも、母の死により長らくピアノが弾けなくなっていた栄伝亜夜に松岡茉優。楽器店勤務でごく普通の家庭人として暮らしながら、コンクールの年齢制限ギリギリのいま、最後の挑戦をする高島明石に松坂桃季。非の打ち所のない演奏技術で君臨するマサル・カルロス・レヴィ・アナトールに森崎ウィン。そして、養蜂家の父と共に各地を転々とし、家にピアノがないにもかかわらず天賦の才能を発揮する風間塵に鈴鹿央士。完璧と言っていいキャスティングが実現した。石黒プロデューサーはその狙いを次のように語る。
    「松岡さんと松坂さんという若き実力派がいる。一方、海外にも進出した新星がいて、謎の少年もいる。いい意味で立ち位置が違っている4人を共存させたいと思いました。 (演技の中でも)ある意味、キャスト同士が、言わばライバルとして闘うような作用が生まれれば、そのことが(映画を観る側には)応援したくなるキャラクターになるのでは? と考えました」 
    4人の主要登場人物はそれぞれピアノに向き合う原動力が違う。演じる俳優たちもキャリアが異なる。松岡と松坂は様々なポジションを巧みに乗りこなす技量の持ち主だが、そこにスピルバーグの『レディ・プレイヤー1』で抜擢された森崎と、手つかずの新人、鈴鹿を「ぶつける」という英断が、本作の「映画としての覚悟」を物語っている。石川慶監督は言う。 「松岡さんはいちばん最初に決まりました。松岡さんが演じることで、僕が当初思い描いていたよりも、深く内面を掘っていくような亜夜になりました。ピアニストの内面をどうビジュアルにするか。その答えのひとつが松岡さんの演技にはあります。
    松坂さんはいつかご一緒したいと思っていましたが、ここまで上手い役者さんとは! すごく歩み寄ってくれるし、打てば響く。フレッシュな部分を残したまま、ここまでのビッグネームになっている。すごく珍しい存在だと思います。
    マサルは悩みました。王子様キャラというだけで考えると、いろいろな可能性があった。この物語はインターナショナルコンペティション。国際色のある雰囲気や、小さなところには収まらない何かが必要でした。ウィン君は未知数でしたが、ミュージシャンだけにピアノにもバシッとハマりましたね。
    鈴鹿君の持っている『得体の知れなさ』にふれたとき、風間塵はこうでなければいけないのではないか。そう思いました。何も描かれていない無地のキャンバスに初めて手を入れる感覚。どう転ぶかわからないスリリングさは監督冥利に尽きます。心中するような気持ちでキャスティングして本当に良かった」
    深遠、変幻、未知、そして無垢。四者四様の元素が混じり合うことで、映画『蜜蜂と遠雷』という唯一無二の元素が生まれたのである。
    映画ならではの生々しさ。それを実現するために必要なのは、ある意味、「真の主役」と言っていい音楽をいかに本気でクリエイトするかにかかっていたと言って過言ではない。小説になくて、映画にあるもの。それは現実の音であり、現実の音楽だからである。
    本作の特筆すべき点は、キャラクターのドラマの傍らに音楽=演奏があるのではなく、ドラマと同じくらい、いや、ときにはドラマを凌駕するほどの存在感で、音楽=演奏が屹立しているところだ。ピアニストのアイデンティティを証明するものは、音楽=演奏に他ならない。その確信があったからこそ、徹底的にこだわった。
    まず、4人のピアニストの演奏はいまをときめく日本の若手ピアニストたちが奏でている。ここでは、キャラクターにふさわしいピアニストが「キャスティング」されている。たとえば、国際色豊かなルーツを持つマサルの演奏を担当した金子三勇士は、ハーフで、実際に王子様感があるひと。そんな彼らが「役になりきって」演奏しているからこそ、迫真の音楽が生まれている。
    また、ピアニスト本人の素顔もキャラクター造形に影響を与えている。亜夜の演奏を手がけた河村尚子が実際に水筒を手にしていたから、映画の亜夜も水筒を手にすることになったという。つまり有機的なインスパイアと相互作用がそこでは起きている。華麗なるキャリアを誇る福間洸太朗が「家庭人」として明石のピアノに心を砕き、まさに神童そのものの藤田真央が塵の演奏に乗り移る。複合的で、超立体的な「舞台裏」が、この映画の奥深さでもあるだろう。
    そして、物語のクライマックスといっていい場面で演奏される架空の課題曲「春と修羅」を、世界を股にかけて活躍する稀代の作曲家、藤倉大が書き下ろした。オファーを受けたとき、既に小説を読んでいた藤倉は「ここに答えがある」と宣言。原作の描写を解析、オリジナル曲を浮かび上がらせた。藤倉は語る。
    「小説に出てくるこの楽曲の描写部分を全部取り出し、それを部屋中の壁に貼って、僕なりに再現してみたつもりです。4人のカデンツァ(即興演奏)も全部書きましたが、各人各様の響きで、小説の描写に忠実で、さらに僕の音楽の響きがするものとして書き分けるのは難しかった。オペラの作曲で、各キャラクターの性格の違いを音楽で書き分けるのに似ていたかもしれません」
    2018年10月22日。武蔵野音楽大学のホール、バッハザールで、映画はクランクインした。物語のメインステージがコンペティションとなるだけに、主要の映像もホールが中心。ともすれば、画作りは平板にもなりそうだが、歴史がありながら清潔なこのホールの独特の設計をうまく取り込んで、画が躍動する。
    この日は、緊張の面持ちで歩いていく亜夜のシーンが撮影されたが、彼女の心象風景を、ホール内の長いトンネルのようにも思える廊下がさり気なく映し出す。亜夜は口数の少ない主人公なので、こうした画がとりわけ重要。それにしても、ボブスタイルに髪を切り、私たちの前に姿を現した松岡茉優の栄伝亜夜っぷりは圧倒的。もの言わず「これが亜夜です」とメッセージしているように思えるその存在感は、理屈を超えた領域にある。孤独、不安、葛藤、勇気、不屈、前進……無言の表情に、亜夜の様々な心理状態がブレンドされ、観る者の想像力をかき立てる。天才が天才を演じる。なるほど、小説「蜜蜂と遠雷」を映画にするというのはこういうことかと深く納得させられる幕開けだった。
    自然に囲まれた高台にあるこのホールは、豊かな静寂に包まれており、そのことがより一層、音楽の深遠を際立たせてもいる。ピアニストたちの心理を描く作品にとって、最良の撮影場所と言える。建物の内部には、画になる空間も多く、ホールそのものが生き物のように感じられることも少なくない。演奏者たちの鼓動と呼吸が、ホールに積み重なってきた数多の鼓動と呼吸と響きあって、耳には聴こえない「音楽」を奏でているようにも感じられる。本作は撮影所のスタジオを使わない、オール・ロケーション撮影による作品となったが、このホールこそが撮影スタジオでもあったし、きわめて重要な「登場人物のひとり」でもあった。このホールの「キャスティング」もまた大成功だったと言えるだろう。
    メガホンをとる石川監督は、ポーランド国立映画大学で演出を学んでいる。長編第1作『愚行録』でも組んだポーランド人撮影監督ピオトル・ニエミイスキを、撮影に迎えた。ポーランド時代からの盟友だけに石川監督の信頼は厚く、ふたりで並んでモニターをチェックしている姿は共同監督すらイメージさせるほどパーフェクトな「二人三脚」ぶり。撮影に関する会話は、助手も交えて英語で交わされる。さらに、コンクールの審査委員長役の斉藤由貴は台詞のほとんどが英語だったりもするので、まさにインターナショナルな感触の、異例の撮影現場となった。
    あるときは螺旋階段を意外すぎる撮影方法で見上げたり、あるときはステージを360度回転しながら捉えるニエミイスキ撮影監督のアプローチは、斬新でありながら、しっかり地に足がついている。ハッとする驚きがあると同時に、そうか! と膝を打つような気づきにあふれている。その狙いを石川監督はこのように話している。
    「撮影は臨機応変におこないました。音楽ものなので、その場の(演奏者の)感情に寄り添い、より有機的なうねりを生み出したかった。全体的なことを言えば、どっしりとしたイメージから、次第に動き始める……亜夜の心情にリンクする画の展開を考えました」
    人間同士のぶつかり合いではなく、個人個人の内面の格闘がメインになる異色の映画だからこそ、ポーランドという「異邦人」のまなざしも必要だったのではないか。どこかに冷徹さがありながら、しっかりエモーショナルな映像の質感は、まるでヨーロッパの映画を観ているかのよう。そのありようは国際的なピアノコンクールの場では、国籍などどうでもよくなるほど、ひとりひとりの才能のありようが最重要となる情景に隣接している。そして、このことは石川監督とニエミイスキ撮影監督のコンビネーションがあって初めて「具体化」したもの。過酷なピアノコンクールの現場から目を逸らさず、ドキュメンタリーのように切り取ることで「体験型」の作品を浮上させるという映画の狙いは、見事に達成されている。
    演者とピアニストが共に創り上げた「映画の演奏場面」は、本作の白眉。演者はキャラクターの姿形から演奏に臨む姿勢、演奏タッチを浮き彫りにし、それを音響面から支えるピアニストは演奏を通して、演奏者の技量や創造力を伝える。互いに補強し合いながら、登場人物を「出現させている」。
    たとえば、マサルを体現する森崎の、スキがないのにどこか優雅な所作は、まるで白鳥がそうであるように、決して誰にも見せない血の滲むような努力が彼方にあることを感じさせる。あるいは、塵に扮した鈴鹿の、ふらふらと現れながらピアノに向き合うと、一変して凄まじい集中力のまま、天空を駆け巡るような広大な自由を獲得していく様は、観る者を理由なき歓びの世界へと運んでいく。明石を演じる松坂の、素朴・実直でありながら、暮らしの中から生まれ出づる一滴の輝きを確かにそこに滴らせていく光景は、ただただ感動的である。とにかく、人間的。どんな天才も、ひとりの人間なのだという真実に出逢わせてくれる。
    そして、松岡が命を吹き込んだ亜夜は、あるときはしなやかに、あるときは懸命に、森の中の、まだ誰も見たことのない道を切り拓くように、ピアノと共に居る。
    オーケストラをバックに従え、各人が演奏する場面は、まさにクライマックス。これだけ大所帯の演奏者たちが、架空のピアニストのために渾身の演奏を繰り広げていることが、比類なきエモーションを湧き上がらせる。石黒プロデューサーは「特等席でコンクールを観ているような映画にしたい」と語ったが、その言葉通りのことが起こっていた。
    観客役として訪れたエキストラたちも、この演奏に呑まれたのだろう。心からの拍手は、ホールに一体感を生み出した。それは、架空のピアノコンクールが、現実のピアノコンクールになった瞬間だった。
    2018年12月11日。関東近郊の某市民ホールで、映画はクランクアップの日を迎えた。このホールは演奏シーンのために用意された場所ではなく、亜夜が鏡の中の自分と向き合う場面のための空間だった。
    その数日前、武蔵野音楽大学のバッハザールで松岡は映画のラストシーンを演じきっていた。ステージでの演奏を終え、これまでの人生のすべての呪縛から解き放たれた亜夜が浮かべた、かけがえのない笑顔はいつまでも映画の余韻を保証する、鳥肌ものの表情だった。だが、クランクアップの日に撮影されたのは、映画のファーストシーン。映画というメディアは順撮り(物語の順番通りに撮影すること)が困難なため、ときとしてこのようなことも起こりうるが、それにしても撮影最終日に冒頭場面を撮るのは、きわめて繊細に揺れ動く主人公、亜夜の心情を考えれば、いかに天才女優と言えども高いハードルだったに違いない。
    だが、驚くべきことに、そのシーンはなんと1テイクのみでOKとなった。監督以下、その場に居合わせた者すべてを、大きく頷かせる演技がそこにはあった。混迷の淵に佇みながら、それでも、辛く重すぎる一歩を踏み出そうとする、幽かな微笑み。緊張と硬直に取り囲まれながらも、どうにか懸命に「糸口」を見つけ出そうとする亜夜の魂の根源。どうして、あのような表情ができるのだろう……思わず、ため息が漏れた。
    ファーストシーンは、作品の導入であり、ここで観客が主人公に感情移入できるかどうかの「分かれ目」となる。松岡は、それを無言のまま成立させた。彼女はものすごい才能の持ち主だが、この場面は様々な必然が結びついたひとつの奇跡を目撃する想いだった。
    撮影終了後、日本だけでなくポーランドでも映像の仕上げが行われ、針に糸を通すような編集が繰り返され、音圧を重視した7.1chによる音響効果が施され、映画はついに完成。原作者、恩田陸も絶賛する作品になった。完成後、石黒プロデューサーはその手応えをこのように述べた。
    「五感で感じる映画として届いてほしいですね。観るだけではなく、体感するものとして。たとえば音が身体にぶつかってくる。映画が本来持っている「身体で感じる」部分を生かしたい。映画の楽しみ方、可能性を広げる作品として届くとうれしいです」